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日本人による探検歴史上偉大な足跡を残した白瀬中尉らによる南極探検。
その偉業を後世に伝えるべく白瀬中尉の故郷、秋田県金浦町に建てられたのが『白瀬南極探検隊記念館』。
白瀬中尉の人物像を始め、南極探検に使用した装備や極地で見られるオーロラの神秘についての解説等。
知られざる南極探検の歴史的偉業にふれることが出来る。
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『白瀬南極探検隊記念館』の建物。
真上から見ると一部が切れたドーナツ型の建物の中心に円錐形の造形物がある。
円錐は氷山を、まわりのドーナツは探検隊のチームワークを表現しているそうだ。
建築家、黒川紀章氏の設計。
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記念館の中はいくつかのゾーンに分かれている。
プロローグゾーンでは探検隊員たちの生い立ちや南極探検の歴史などを紹介している。
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アンターティカ(南極)ゾーンでは大阪市立大学工学博士、南先生が制作したオーロラ発生装置や
南極の自然、現在の南極観測隊の活動の様子などをビデオを交えて紹介している。
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白瀬南極探検隊ゾーンでは探検隊が実際に使用した装備品や当時の状況などを紹介している。
正面に見えているのは使用したテントと防寒具、ソリなど。
船の名前の書いてある丸い板は乗り組んだ『開南丸』のテールエンド。
『開南丸』は204トンあまりの木造機帆船で、他の外国探検隊の船に比べると半分くらい。
この小さい船を操って無事に探検航海を果たした野村船長は諸外国から大いに賞賛されたとか。
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こちらは実際に使用された寝袋。
南極の雪原での野営に使用されたが、当時としてはかなりのノウハウを注ぎ込んだ物。
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探検隊が乗り込んだ『開南丸』の模型。
南極点到達を競い合っていたアムンゼン隊やスコット隊の使用した艦船も展示してある。
手前の船が『フラム号』、奥に人の影になっているが『テラノバ号』。
真ん中の船が白瀬隊の『開南丸』。
すべて、1/30のサイズで、大きさが比較出来る。
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『開南丸』の一部分が実物大で再現されているが、その小ささに驚く。
ここでは、白瀬隊を支えた野村船長の人形が航海日誌を語り聞かせてくれる。
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記念館の円錐形の部分はオーロラドームとしてオーロラの実写映像や
オーロラを題材にしたおとぎ話をレーザーを使った映像で上映している。
また、円錐の根元部分からは特殊は方法で水が放水されており擬似オーロラを見ることが出来る。
画像では虹のような模様になっていますが分かりますか?
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『白瀬南極探検隊記念館』の周辺は広い公園になっていて『開南丸』やクジラの模型、遊具などがある。
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一般に白瀬中尉として知られているが、本名は『白瀬矗(しらせのぶ)』と言い秋田県旧金浦町の
400年以上歴史のあるお寺(浄蓮寺)の長男として1861年6月13日に生まれた。
最初は北極探検を目指したが、アメリカの探検家ペアリーの北極点到達を知ると計画を南極に変更。
当時の政府に南極探検の意義を上申し費用を獲得(希望額よりかなり減額になったが・・・)。
1910年(明治43年)11月28日、隊員27名と共に東京芝浦港を出港し、1912年(明治45年)
1月28日に南緯80度50分に到達し、周辺一帯を『大和雪原(やまとゆきはら)』と命名。
6月20日、一人の死傷者もなく芝浦港に帰港する。白瀬矗51歳であった。
実際の探検ではソリを引く犬を失ってしまったり、激しいブリザードに見舞われ仲間同士が孤立しまったり
非常に過酷な探検であったそうだ。
また、『大和雪原』と命名した地点も実際には陸地ではなく氷原の上であった。
帰港した白瀬矗は日本各地からの依頼に応じ、探検の様子を講演して回ったが2〜3年もすると依頼もなくなり、
その後は故郷の金浦町へ帰り生活したが、その生活は決して裕福なものではなかったそうで寂しい晩年をおくったそうだ。
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【白瀬南極探検隊記念館】
開館時間
3月1日〜10月31日 9:00〜17:00(入館は16:30まで)
11月1日〜翌年2月末日 9:00〜16:00(入館は15:30まで)
休館日
月曜日(祝日の場合は翌日)
年末年始(12月28日〜1月3日)
入館料
一般 300円、小・中学生 200円
20名以上の団体は各100円割引
障害者半額
【問い合わせ先】
『白瀬南極探検隊記念館』
秋田県にかほ市黒川字岩潟15−3
TEL 0184−38−3765
FAX 0184−38−3762
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